戊辰戦争から130年になる。白虎隊の悲劇や、越後での戦いなどは、多くの書物で良く知られているが、当喜多方地方でも激戦があった事は余り知られていない。
130年前の9月11日はちょうど喜多方に政府軍が押し寄せ激しい戦闘が行なわれた日なのである。そこでかっての古戦場と思われる地を訪ねて見る事にした。(1998年9月訪問) |
濁川付近の戦い |
会津藩の補給路である越後を制した政府軍は津川、野沢(西会津町)の会津陣地を攻める。会津軍は力戦奮闘するが、兵力、物量に勝る政府軍は盆地西部丘陵を越え見頃、岩沢、宮在家、慶徳まで攻め入った。 両軍喜多方西方丘陵地で激しく戦うが、東軍(会津)は支えきれず退却した。9月10日、慶徳村を退いた東軍は濁川岸辺りで激しく戦ったが、勝敗もつかず弾丸も尽き夕刻になってきたので、体制を整え弾丸補給のため一応熊倉に退却した。 その濁川付近を訪ねてみた。慶徳町に向かう県道に濁川橋が懸っている。そこで車を降り、辺りを見回してみる。岸辺の左向かいの方には新宮や山崎が見える。右手が松野や見頃になる。「喜多方市史」を読む限り、だいたいこの辺が戦場に違いない。 岸辺には野菊が咲き乱れ、釣り人が川に糸を垂れている、そののどかな風景からは、130年前にこの地で激しい戦闘があったとは思い描かれなかった。 政府軍兵士は遠く故郷の地を思いながら、会津軍兵士は親、子の安否を気遣いながら、銃火を交じり合せて居たのかな?なんて思いを馳せながら、この地を後にした。
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関柴中里付近の攻防 |
9月11日政府軍の岩国兵は山崎村に向かい、見頃村と慶徳村の兵は小荒井村に、そこから松代、長州の兵を塩川方面に向け、松代、岩国の一部の兵をもって米沢街道の熊倉駅の押さえに向けた。 必ず熊倉に向ってくるものと予測していた東軍は、中里(喜多方市関柴町)近くの林に身を隠して、近づいてきた松代、岩国の一隊に、一斉に砲火を浴びせた。不意をつかれた政府軍は体勢を崩して小田付村に退却した。 東軍の一隊は先回りして小田付村と小荒井村の民家に火をかけて退路を塞いで挟撃した。ここで激しい戦いが展開された。これを塩川に向かった一隊が銃声を聞きつけて取って返し、上高村の辺りで東軍の側面から猛射浴びせてきた。東軍叶わず熊倉に引き上げる。 政府軍に大打撃を与えた会津軍は、一旦熊倉に退き態勢を整え、次の戦いに備えようとしたが、米沢口政府軍の南下の報を察知してか、急遽会津軍は翌12日塩川に13日下荒井、中荒井に14日城南一ノ堰村に移動したという。
佐藤銀十郎と官軍兵士の墓 この戦闘で会津側の戦死者の中に銃の名手佐藤銀十郎(当時(21才)が居た.。銀十郎とは幕府の勘定奉行小栗上野介所領、群馬県権田村の農家の産まれ、若くして小栗家江戸屋敷に召されフランス式調練による陸軍歩兵となる |
倉淵村から墓参に訪れ線香を供える | 県道からの入り口に案内版を立てる |
この激戦地の関柴町中里に政府軍の墓があると「喜多方市史」に載っていたので今度はそのお墓に行ってみる。喜多方市内と熊倉を結ぶ街道のほぼ中間に中里はある。姥堂橋を渡り中里の入り口、右側に墓地があったので、そこが、多分そうだろうと、中に入っていったが、なかなか見つけられない。ようやく南東端にさほど大きくなく、古びた石碑があった。それが、土地の人達が立てた政府軍の墓である。 戦争はいつの時代でもそうだが、百姓達は家を焼かれ田畑を荒らされ多くの苦渋を味う。それにも拘わらず異郷で死んだ政府軍の兵士達のために、お墓を作り手厚く葬った地区の人達の心の優しに心が和む。 雑木林に潜んで待ち伏せをしていたと思われる所はどの辺だろうと、辺りを見回したが、一面見通しの良い田畑か住宅でそれらしき物は見当たらず、130年も経つので田んぼや、宅地に開発されてしまったのだろう。
秘話1 白虎隊生き残り「飯沼貞吉」 |