義士 中根米七の墓

 


小栗上野介の家臣「佐藤銀十郎」の墓を訪ねて熊倉町杉の下墓地を訪れた際、義士「中根米七」の墓が近くにあり、中根米七とは、いかなる人物で又どうしてこの熊倉にあるのか?ずーと気にしていたが、ようやくこのほど「グラフきたかた」3号にその詳細が掲載され納得した。
そこでこの掲載されてる一部を出版元の「おもはん社」の了解を得たので、かいつまんで紹介しましょう。


 明治11年8月23日朝。熊倉村の杉の下共同墓地において、腹を割き咽喉を突いて俯伏する一人の武士が発見された。墓地の入り口近く、杉の木の下の草中にゴザを敷き、端座して壮烈な最後をとげた旧会津藩士・中根米七兼高の無念の姿であった。
 武士とはかくあるものかと村民騒然とする中で、舘村(現熊倉町)の肝煎五十嵐彦四郎の次男二美少年(のち若松市木流、春日部家養子)は血の海に伏す人間のただならぬ光景を慄然として目に焼き付けていた。「・・・・その頃幼少であった余は、学校から駈け付けて現場を見たものだ。菅笠をかたわらの墓石に置き、もろ肌を脱いで見事に咽喉をさし貫き、膝を組んだままうつ伏しになっていたが、短刀の刃先が二寸も上に現れていたった。・・・・」

会津藩士中根米七は食禄三百石を領したる中根源五右衛門の第五子、性格は剛毅にして温厚。事に臨み泰然動かず。文武の芸を日新館で学び、壮年にして太子流の剣法を究め、兼ねて柔術を善くし、騎士に挙げられ太子流の師範となる。平生好みて孫子を読む。その風貌を事件当時の手配書によってみれば、背は並より少し低くやせ型。顔は丸く頬がこけ目は小さい方。色は黒い方、話す言葉は静かなる方という。年は五十五、六歳位とある。
戊辰戦争に敗れた後、中根は思案橋事件に加担する。思案橋事件とは明治政府の参議であった前原一誠が木戸孝允
伊藤博文・井上馨等の専横政治を「維新の大精神」に反するとしてその職を辞し、彼等三人の奸臣を誅して政治の大改革を断行しようとした事件である。
 明治九年十月二八日前原は同調者奥平兼輔(長州人)らとともに長州荻において武装蜂起を決行した。(荻の乱)。翌二九日、すでに前原と政論を同じくし、気脈を通じていた旧会津藩士永岡久茂、中根米七らは、かねての約束通りこれに呼応して千葉県庁襲撃の挙に出たのであった。
同日夜にいたり、同士十三人(大部分が旧会津藩士)は、日本橋区小網町にある思案橋に集結して千葉県登戸へ船出しょうとしたが、その矢先に警官がかけつけて大格闘となった。双方死傷者を出し、計画は未遂に終った。


思案橋事件を伝える「東京日々新聞」(猪苗代町・塩谷七重氏提供)

永岡等多くの同士は捕縛され、獄死や斬首などに処せられたが、一人中根の行方はようとして知れなかった。ここに中根米七は国事犯として追われる身となった。
思案橋を脱出してからの中根は、西郷隆盛、桐野利秋を頼って鹿児島に渡り、西南戦争を戦ったといわれて、錦絵にも登場している。
 中根は各地を放浪しながら会津に戻った.。会津に入ってからも諸説があるが、ここでは実際に中根逮捕の命令を受けた、若松警察署野村唯三郎巡査の遺稿集「断雲血涙録」をひもといてみる、野村は戊辰戦争当時十六才、越後方面の守備についていたが、白虎隊編成のため帰城命令を受けた。しかし敵を目前にして一戦もなさずには帰りたくないと猶予をもらい奮戦していたが負傷、そのため白虎隊には加わらず飯盛山の学友と明暗を分けたという。
 野村は中根と面識があった。野村は「中根氏とは戦争以後、高田藩に謹慎同房に起居のおりは世話にもなり、亦かねて同氏の人格も聞き居たるに付き、捜索逮捕と言う事は忍びざる所なり、然れども職務上拒む訳にも行かず、依って其の命を受けたり」と命令を受けざるを得なかった苦衷を同書に書いている。(中略)
 野村は中根を目の前にしても、逮捕敢行するなど到底出来なかった。世話にもなり又武士としての人格上、職務にたいして済まないと思いながらも、本人の意にまかせ、自分は職務上責任上失態となることなどは、いかなる処分も受け、また自殺に関係あるものとあらば、これまた致し方なしと決心した(同書)。
 そして獅子沢から飯河の親戚関柴村某方に行き、惜別の盃をあげて、夜分熊倉地内墓地に至り中根の自殺を見届けた。中根米七ときに六〇歳といわれる。


以上が「グラフきたかた」に掲載された一部である。この「グラフきたかた」にはこの他に、蔵の町喜多方案内記や人物随想、などなど・・・ふるさとの匂いがいっぱい詰った情報がグラフにて満載されてます。

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